この蔵は、昭和五年四月二十日、建主 山田(やまだ) 武四郎(たけしろう)氏、棟梁 佐藤(さとう) 忠洋(ただひろ)氏によって建設が開始されました。
山田家は、現在ヤマカノ醸造株式会社の本社となっております隣地が、江戸時代から明治大正・昭和中期まで、商業では当地方きっての豪商と言われた「山田本店」が本家であり、武四郎氏は、その別家の「山軍(やまぐん)」当主であります。
山田本店は各種事業の中でも明治期には製糸業の近代化を図り、私財を提供しての小作人救済を目的とした開墾事業や、北上川への来神橋の架設等も、その一環と言われております。
別家としての「山軍」は、所有する広大な農産収穫地から産出される穀物類を利活用して味噌・醤油醸造業を経営、当時 昭和恐慌で不景気のどん底時に、この蔵等々の各種建設を実行し、多くの人々の救済を図ったようであります。
私共 角田屋が山田家から、土蔵並びに敷地を譲渡されたのは 次当主 山田(やまだ) 義之(よしゆき)氏の昭和四十一年ですが、角田屋創業者である私共の前当主は、戦前 醸造業を経営しておりました山軍へ奉公・勤務しており、太平洋戦争で招集され、戦後 復員してきた時には、農地解放等により当地きっての大地主でありました山田家は戦後の混乱もあり苦境の極みでありました。
この土蔵は、登米地域で最も新しい土蔵建造物であります。
昭和五十三年頃、東京の有名大学の建築学部の教授・学生の方々の調査を受けた際には現在同程度の土蔵の建造は、技術・材料面で困難を極めるだろうとの事でした。
その後山形県在住の老人が「昭和十年から七年間 冬の間土蔵の建具等々の漆塗りをした。存命中に、自分のした仕事を見ておきたい」と訪ねて来られたことがありました。
このような漆塗りを施した土蔵は、秋田県横手市近くの増田町に多く観る事ができます。
登米と増田 共通するものは江戸時代から近代まで 交易・物資の中継地点として、商工業者や地主等々が活躍していた処であります。
この土蔵にも、二階の手摺や欄間、格子建具等々、そして土蔵二階に床の間付きの書院風一室を設ける等、建主と棟梁の拘り(こだわり)と趣(おもむき)を感じ取る事ができるような気がします。